東京都江東区亀戸の地理
江東区の北部エリアにあり、亀戸駅の北に、蔵前橋通り、南に、国道14号(京葉道路)が通っている。繁華街、オフィス街、商店街、住宅街 と様々な雰囲気を持つ。錦糸町と合わせて『錦糸町・亀戸副都心』の指定を、東京都から受けているが、錦糸町が墨田区、亀戸は江東区。地方自治の行政区分は2つの行政区内に連なる。鉄道はJR総武線・東武鉄道亀戸線が利用できる
亀戸と書いて「かめいど」と読むのは難読地名で、元々は亀井戸と書いたことに由来する。元々の地名は「亀島」(または亀ヶ島、亀津島)で、その名の通り亀の形に似た島であったことによる。
古代の利根川の東京湾河口に土砂が堆積して島が作られた。その地点は利根川の河口付近の分流である当時の中川(現在の旧中川)と隅田川(現在の横十間川)の接近した東西両河口の間に当たる。現在の北十間川(これも当時の隅田川の分流の一つ)が陸側と島とを隔てていて、その流れの南岸の堆積が島となった(現在の亀戸香取神社付近)。
後に島の周辺に土砂が堆積して周りの島々と陸続きになり、亀島は亀村と呼ばれるようになった。これが、現在の亀戸三丁目附近にあった臥龍梅庭の井戸「亀ヶ井」と混同されて「亀井戸」と呼ばれるようになり、さらに「井」が取れて亀戸となった(亀津島の津(「つ」は古語で「の」の意)が「と」に変化したものとする説もある)。
亀戸村のうち、亀戸天神・天神橋周辺、北十間川南岸(境橋周辺)、および十間川東岸(日鐵NDタワー周辺)の各地の百姓商売屋は1664年(寛文4年)に取り立てられ、1697年(元禄10年)に町地となり、亀戸町・亀戸境町・亀戸清水町が成立した。この三町は正徳3年閏5月11日(1713年7月3日)に本所の町地が町奉行に移管された際に、町奉行と代官の両支配地となった。1872年(明治5年)に亀戸町以外は亀戸村に再び合併した。
1889年(明治22年)市制町村制施行が施行された際に横十間川以西が東京市、以東が南葛飾郡とされ、南葛飾郡内の各村も合併・再編された(「明治の大合併」)。それまでの亀戸村も、新設の各村((新)亀戸村、大島村、吾嬬村)、そして東京市深川区と本所区へ編入された。大島村に編入された区域は大島村大字亀戸、吾嬬村に編入された区域は吾嬬村大字亀戸になり、「亀戸」の地名は残っていたが、大島町(1900年町制施行)は1915年(大正4年)に、吾嬬町(1912年町制施行)は1930年(昭和5年)にそれぞれ町内の大字と小字を改編して、大島町大字一~八丁目、吾嬬町大字東一・五丁目となったため、区域内における字としての亀戸の地名は消滅した。また、東京市に編入された区域は、暫定的に深川区ならびに本所区内の「村」として残っていたが、1891年(明治24年)に近隣の町域に組み込まれた。すなわち深川区亀戸村字南江耕地が深川猿江裏町に、字大横川が深川東町に、字古石場が深川古石場町に、本所区亀戸村字水神西宅地(飛地)が押上町に、字矢場耕地が本所太平町一~二丁目・柳島町・本所錦糸町・本所柳原町一~二丁目に、字大横川が本所柳原町三丁目にそれぞれ編入された。
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亀戸天神社、藤の名所
行ってみたらピークが終わっていた
正保年間(1644年 – 1647年)、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。そして1661年(寛文元年)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。
当時、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。そして1662年(寛文2年)、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰府天満宮に倣い造営された。本殿の扁額は、御本社である筑紫国太宰府天満宮宮司であった西高辻信貞による揮毫。
古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」と称されていたが、1873年(明治6年)に府社となり亀戸神社、1936年(昭和11年)に現在の亀戸天神社となった。
亀戸天神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
太鼓橋からスカイツリーが見えたよ
亀戸香取神社〜スポーツの神が祀られている名高い神社
御祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)である。日本書紀によれば、武功の神とされている。
665年(天智天皇4年)創建。藤原鎌足が東国下向の際、この「亀の島」の地に船を寄せて太刀一振を納め、香取神宮から分霊を勧請し旅の安泰を祈り神徳を仰ぎ奉ったのが起源である。
天慶年間(938年~947年)、藤原秀郷が当社で平将門討伐の戦勝祈願をし、成就したことから弓矢を奉納し、「勝矢」と命名した。このような経緯から、歴代天皇をはじめ、源頼朝や徳川家康などの武将、武道家の篤い崇敬を受け、武道修行の人々に祖神として崇められた。
近年では宮司が祭神を「スポーツ振興の神」とし、 ANN系列「スーパーJチャンネル」 で紹介されてからスポーツ関係の参拝者が急増。知名度を高め各地から参拝客を集めるようになった
亀戸香取神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
亀戸大根の碑
このあたりで大根づくりが始まったのは、記録によると文久年間(1861~1864)の頃とされ、当香取神社周辺が栽培の中心地で、明治時代にかけて盛んに栽培されてきました。
「東京江東区の歴史のホームページ参考」
当地は荒川水系によってできた肥沃な粘土質土壌であったため、肉質が緻密で白く冴えて肌の大根づくりに大変適していました。
亀戸大根は、根が30cm程度の短い大根で、先がクサビ状にとがっているのが特長。
明治の頃は「おかめ大根」とか「お多福大根」といわれましたが、大正初期になって産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。しかし、宅地化が進んだ大正時代の終り頃から産地は江戸川区小岩や葛飾区高砂などに移っていきました。
秋から冬にかけてタネをまいて早春に収穫となる亀戸大根は、当時は他に大根などの全くない時期で、新鮮な野菜の出始めの頃なので根も葉も共に浅漬けにして美味しいことから、江戸っ子から大いに重宝がられました。
勝石。スポーツに勝つ、病気に勝つ、自分に勝つ、勝利をもたらす神様が祀られているよ。
触って運をつけましょう
スポーツ振興の神
天慶の昔、平将門が乱を起こした際、追討使・俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)はこの香取神社に参拝し戦勝を祈願しました。
乱はめでたく平定することができ、神恩感謝の奉賓として弓矢を奉納、「勝矢」と命名されました。この古事により、1000年の時を経て今も「勝矢祭」が守り伝えられています。歴代の天皇をはじめ源頼朝、徳川家康などの武将達、また剣豪・塚原卜伝(ぼくでん)、千葉周作をはじめとする多くの武道家達の篤い崇敬を受け、武道修行の人々は香取大神を祖神と崇めていました。
このような由来から、亀戸 香取神社は「スポーツ振興の神」として、スポーツ大会・試合の勝利を願う多くの参拝者が訪れ篤い祈りを奉げています。
「亀戸香取神社のホームページ参考」
くず餅で有名な船橋屋の亀戸天神前本店
・船橋屋は江戸から伝わる元祖発酵和菓子です。元祖くず餅船橋屋は江戸文化二年(1805年)に亀戸天神参道に創業した発酵和菓子「くず餅・あんみつ」の老舗です。
・江戸は文化二年(1805年)、十一代将軍徳川家斉の頃に創業致しました。 メイン商品のくず餅を始め、あんみつ、ところてん、 季節限定和菓子なども取り揃えております。
・メイン商品のくず餅は、無添加、低カロリー(1人前194kcal)の発酵和菓子です! 低カロリーですのでダイエットのご褒美などにもオススメです!
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甘栗専門店木守庵
東京都江東区亀戸の日帰り旅行のまとめ
東京都江東区亀戸と狭いエリアでの散策ですが、歩きやすい道なので、ちょっとしたウォーキングになると思います。是非一度、亀戸を訪れてみてはいかがでしょう。
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